原作改変は許せない云々でSNSが少し荒れています。
最終回目前なのに、批判に熱量を使うのはどうなのだろうとは思います。アニメはアニメ、小説は小説で、独立して楽しめばいいんじゃないかと思っています。
アニメ世界で、もし黄前さんがSoliに選ばれるとしたら、下の3ケースです。
1)黄前さんが黒江さんよりも上手い・・・再オーディション無しで滝先生に選ばれる。
2)黒江さんが黄前さんよりも上手い・・・公開オーディションで部長票を集めて選ばれる、あるいは黒江さんが辞退する。
3)黒江さんと黄前さんが本当に全く同じレベル・・・ブラインドオーディションで高坂さんの最終投票で決まる、あるいは黒江さんが辞退する。
このどれかになります。シーズン1からの整合性を取ろうとすると、1と2は採用できない。黄前さんが上手いという描写は最後まで出てこないし、1なら、そもそも黒江さんは辞退するとか言わなくても良いはず。2なら実力主義云々が全く意味をなさなくなる。
また、音楽でまったく同じ演奏はあり得ないから3の同レベルは建前だけの言い訳となり、結局高坂さんは好みで選ぶことになってしまう。黄前さんの音と分かったうえで選んだ、最後は二人で吹きたかったから、みたいな告白をされていたかも。こうなると、実力主義云々、シーズン1のオーディションの経緯との整合性が取れなくなってくるんです。
アニメを振り返ると、シーズン1の公開オーディションが今になって最終局面で大きな影響をおよぼしていた思います。伏線回収とはちょっと違う、枷とでも呼ぶような。
(わずかながら可能性があるとしたら、黒江さん辞退です。上手くストーリーを積み上げていったら物語として完結できたかもしれない。ただ、最後に辞退させるのなら黒江さんという存在はそもそも不要になってしまうから、相当に上手くストーリーをくみ上げる必要はある。)
原作小説第一巻にも公開オーディションはありました。すなわち原作小説の世界で整合性をとろうとしたら、1しかありえない。再オーディションをしていないから。黄前さんが上手かった、ということになる。しかしながらこれが一切描写されていない。滝先生の迷いかも、みたいな雰囲気もある。
これが小説で明確に描写されていれば、アニメは違った結末を迎えていたはずです。